久々に衝撃を受けた曲「うっせぇわ:Ado」
先日衝撃的な曲が耳に飛び込んできました。
「うっせぇわ」と言う曲です。
川の堤防の上には人という物体がほとんど存在しないので、音楽をガンガンと流してもクレームを受けることもなく、仮に別の人が流していたとしても気になることもありません。
スマホのスピーカーから音を出しますが、シャカシャカと音楽を聞くには耐え難い音しか出てきません。
それでもSpotify アプリを使い選曲は適当に音楽を流していました。
川の堤防の上で自転車をひたすら走らせていると耳に入ってくるのは風の音しかありません。
山の中での川であれば「清らかなせせらぎ」でも聞こえるのかもしれませんが、川幅自体が広く川そのものは風の通り道になっているので無機質なシャーピュー音がするだけなのです。
風の音の後ろでうっすらシャカシャカと力無き何かが聞こえるだけなので、わざわざバッテリーを消耗して音楽を流す意味があるのかと思う時があります。
ですが、堤防の上を一人チャリンコでテンコロと走るのは寂しいので音楽を流します。
風の音と風の音の隙間から「うっせぇうっせぇうっせぇわ」と。
なんですかそれは、なんですかそれは、なんですかそれは!
突如川の堤防の上に氷の柱が突如現れ激突したような衝撃、30数年前に「コンセントピックスの顔」という曲を聞いた時と同じような衝撃を受けました。
あまりの衝撃だったので自転車を止めてしまいました。
風の音がやみ、無音の中から
酒が空いたグラス・・・
皆がつまみ・・・
会計や注文は・・・
青少年の不満をぶちまけているのかな?
曲名とかアーティストは全く気にせずいつもテキトーに聞いているのですが、この曲は気になって曲名を確認しました。
「うっせぇわ」
曲が終わってからも頭の中は「うっせぇうっせぇうっせぇわ」とぐるぐると回ります。
家に帰り着き Alexa に「うっせぇわ」とお伝えすると「うるさいとはなんだ」と怒られるかと思っていましたが「Adoのうっせぇわを再生します」と言って再生してくれました。
「あぁ、Adoって言う人の曲なのね」
ちっちゃな頃から・・・
・・・・・
ナイフ・・・
出だしの歌詞を見ると「昔歌ったことがあるような単語の並び」のように見えました。
その歌詞で歌ってみると言葉の数がハマりました。
まぁそんなこたぁどうでもいい。
歌詞を見るとエネルギーが内向きな尾崎豊の歌詞のように感じました。
この曲を聴いている時にたまたま息子がやってきました。
「なんでこんな曲聞いてるん」と息子が。
「昨日発見して衝撃だったからもっかい聞いてるんだよ」って言うと。
「曲の歌詞が嫌い」と息子は言って去って行きました。
息子ぐらいの年頃の俺って「尾崎!尾崎!」だったんで、ちょっと心配していたんだけど、嗜好が違ってホッとしたりしている。
つーかさ、俺とかと違って真面目というか、素直なんだとつくづく思う。
ホントさ、絶対そっちのほうが、人間的に得だと思うからさ。
Adoの他の曲を眺めてみましたが、ふーん、なるほどねぇ。
って、何かわかったようなわからないような感じ。
最初に耳に入れた曲が衝撃的なので、他の曲は淡白な受け取りとなったのでしょう。
現代、ネットではいろいろな曲が流れています。
そしてほとんどの曲がすれ違って、過去に流れていっています。
自分と一緒に時を過ごすという曲は、ほとんどないのが現状です。
これがいいことなのか悪い事なのかはわかりませんが、何かに囚われて前に進めないよりもいいのではないかと思います。
出来事があった時に刷り込まれた曲があってもいいと思いますが、そういう曲に出会うことが少ないですね。
その時の感情に飛び込んでいく曲、出会いのタイミングということなんですかね。
冒頭に書いた「コンセントピクスの顔」という曲、30数年経ってもたまに歌っている時があります。
この「うっせぇわ」30年経っても頭の中でぐるぐると回っているのかな。
と言うかあと30年したら、俺はあの世にいるか(笑)
(了)
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